NO.919886 ・優しい時間さん(男性/59歳) 2017/06/22 02:22:12
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君のスレをお読みしていて思ったことを述べますね。。。
若い君は多分、「死」というものに対して、逆に恐怖心があると感じました。。。 だからこそ「死にたい」と。。。 死にたいと考える裏には、生きたいとの切望がある。。。だから現実が辛く感じるのですね。だったら死んだほうがマシだと考える。
でも、死ぬにも勇気がいる。。。今、その間で君は暗闘しているのです。
人間はいつかは死ぬ。。。それは当たり前のことだが、それを実感するには君はまだ若い。幾多の身内や友人、また恋人や家族の死を前にしてきた時、「死ぬこと」は避けられない宿命だと達観します。
オヤジは最近思うことに、「死」を本当に自覚することで、「生きること」をより実感するようになった。 オヤジは心臓疾患という病にある。。。明日死ぬやもしれないという危機感の中にある。 でもね。「今日に生きる」それさえあれば、生きていけるものなんだよ。 「今日」。。。今日こそ全て。。。
死ぬことを受け入れる。。。そこに達観した時、ジタバタしなくてもいずれ死ぬんだから、悩み苦しむことさえバカらしいとさえ思ってしまう。
そう考えた時、景色が変わる。。。今まで無視していたものさえ愛しく感じるようにもなる。道の草花、捨てネコ、捨てイヌ。。。ガラス窓に付着する昆虫、古びた若い頃のジーパンや服、幼馴染みの友人、家の柱にある子供の頃のキズ。。。etc。。。みんな命を吹き返して感じる。。。
生きているとうことの尊厳というものが体の中に滲みてくる。
ベビーカーの中の乳児にさえ、微笑んでしまってる。。。
これは画期的な現象だ。
「意識の情報統合理論」というのがある。 それは生きているからこそ「それ」によって「生」を意識します。 でもね、眠る時は一旦遮断します。。。いわば「仮死」と同じ。
それが死ぬとうことの感覚。 つまり現実との結びつきが途絶えることが死ぬともいえます。
それらを深く認識を重ねることで、死ぬことの恐怖心は薄れてもくる。
つまりね、「死」というものは周囲のものによって自己が支えられているとうことに気づきます。全生命体系の一部として自分が繋がっているとうことね。だから、個人はその生態系の一部なんだよ。
それを断絶させることの虚しさたるや???。。。
人が死ぬにあたりそれなりのプロセスがある。。。否認→孤独→怒り→取り引き→鬱→受容。。。これはどこかの本で読んだ。。。。最後の受容が「死」だそうだ。言い換えればそれは「平穏」ともとれる。 もう苦しむことはないからね。
でもね、その平穏とは、本当に「死」を覚悟した者だけが感じることのできる自覚なんだよ。 そこの自覚に到達しない限り、「今ある生を大切にする」ことの意味もある。簡単に死にたいなんて口にすべきではない。それは天に対する冒涜だよ。
オヤジからすれば、君の掲げた6つの概念なんてどうでもいいことだ。
全部捨ててもたいしたこともない。ゼロスタートでもいいではないか?。 死ぬくらいなら生き直すんだよ。まだ20代だろ???。。。これからの人生を考えてごらん。大海原に航海に出る前に湾岸で船のエンジントラブルに巻き込まれた程度だ。。。修理して再度挑めばいいだけ。
新しい自分としてエンターテイメントに生きよ!。 30年後、今の自分を振り返り、「あの時の自分をあざ笑えるように生きよ」。
やり直すんだよ。例えば介護福祉士や社会福祉士の資格でも取得して老人ホームにでも働いてごらん?。。。そこには「生」と「死」を問題意識する景色があり、それが生き甲斐ともなり、生きることの本当の意味を知ることも出来るから。。。
古い傷ついた殻をはぎ取り(雑念を払いのけ)、蝶のように大空へ羽ばたけ!。
死ぬんじゃないぞ。生きよ!。 悔いを残さず生きる。。。これが人としての大義なんだから。。。
挫けるな、男だろ???。応援してるから。。。V
『心頭を滅却すれば火もまた涼し』(覚悟して生きれば、恐いものなし)。 |