NO.909423 ・ナインさん(男性/99歳) 2016/03/29 00:34:38
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昔、カール・ポパーという哲学者のおっさんが、科学の実証可能性と反証可能性の存在を説明するのに、「人の幸・不幸」という事柄に置き換えて分かりやすく説明しとってな。
そこでの一文が「人を幸福にする方法は分からないが、人の不幸を軽減する方法は知っている」というものなわけだ。
で。これがどういう意味なのか説明してやろう。 つまり、貧乏な奴には金を、病気の奴には健康を、恋人のいねぇ奴には恋人を与えれば、そいつらの不幸な状態は確実に軽減するのに対し、幸福というのは「本人の実感だけの話」になるので、他人が何か与えたところで“本人が不満であれば”なんも変わらない。なので他人を幸福にする方法は見当たらない。といった内容になる。
まさしくその通りだろ。
結局な。 家に帰れば風呂も飯も寝床も用意されてて、誰からもプレッシャーや責任を課せられるわけでもなく、困難から逃げてもとくに何のお咎めもないまま、此処までラクして生きてこれたこその「今のソレ」なんだよ。ぬるま湯に浸り過ぎて幸福が何かも分からない。
自分自身で「飽き性」と書いてるだけ、自分でも気づいてるだろ? それが一番の原因でもあることに。何かに打ち込むことや頑張りぬくことが出来ないヘタレだから、その後に実感するハズの幸福感も得られないし、幸福ってもんが空から降ってくるもんだと錯覚しとる。
親から小遣いもらって近所で弁当買って食ってもそれだけの話だが、自分で弁当作って自分の足で登山して山頂についてからようやく食う弁当は、おにぎり1つでもどれだけ美味しさを感じるか。他力本願の怠け者と甘やかしの家庭では不満しか感じないのでな。 |