NO.887005 ・オウさん(男性/39歳) 2015/01/27 00:28:05
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君の言ってる事には大義がある。正義もある。 母を楽にさせたい。母はあれだけ頑張ってる。母の苦労して稼いだお金を無駄にするな。母のしてくれる事に感謝しろ。それらを思えば頑張るのが当然だろ。 君の言ってるのはどれも間違いじゃないし、どれも正しいといえる。 あなたの思ってるそのどれをとっても弟は“悪いもの”であり“ダメなヤツ”になっているといえる。 当然そうなるだろうね。それは間違いない事実だもんな。
だけどそうやって“弟=悪い者”としてしまった時の『悪い者じゃない者=君やお母さん』が言ってる事は結局は
『おまえはオレ(私)の言う通りに動けよ、オレの言う通りにしろよ。(=ちゃんとしろよ)』 『なんでオレの(私の)思った通りにお前はしないんだ!』 『正しい事を言ってるオレ(私たち)の言う通りにしない思う通りにしないお前はホントに悪いヤツだしひどいヤツだよ!』
という事だったりする。
さて…果たしてそれで人は動くのかな??? そう言われて人は素直に動けるのだろうか。。。
人が動くときは、人からこうしろと言われた時ではなく“自分が動こう”と思った時なんだよね。 或いは“動くしか無い”時。 でも後者の方は大抵いい結果にはならない事も多い。なぜなら自分は動く気がなく動きたいとも思ってないので。
また、人は常に“比較”の中で生きていると言える。 “良い方”があるから“悪い方”が生まれる。 “良い方”があるから“そうじゃない方やそこまでじゃない方が”『悪い』という評価を受けてしまう。 もしもそこに二人いたら片方は“良い”と言われ、片方がそう言われると、もう片方は必ず“悪い方”だと捉えられてしまう。三人いたら一人は『良いヤツ』、一人は『良くないヤツ(=そうじゃないヤツ=悪い方)』だと思われて、そしてもう一人は『そこまで良いヤツでもなくそこまで悪くないヤツ』…という風に捉えられてしまう。
人は誰だって『悪いヤツ』にはなりたくないものだよね。 だけどそこに二人しかいない時に“良いヤツ”という評価を自分以外が受け取ってしまった時には…自分は望まぬも仕方なくも“悪いヤツ”になっちゃう。自分も良い方になりたくてもね。 自分も良いヤツになりたかったけれど望まぬも悪いヤツ出来ないヤツになってしまう事も当然あるのよな。
さて今度はまた別の事で考えてみるとだ…
人って“褒められたり”“認められたり”“頼りにされたり”“理解されたり”するととても嬉しかったりするしそうすると元気が出たりする。ま当然だ。 すると自分の存在価値はあるんだと思え、自信を持てて効力感も感じ、もっとがんばろうとも思える。そう思えるので元気よく『動ける』ようにもなるわけだ。
でも反対に、褒められず認められず頼りにされず、理解されなくて…つまりお前は悪い、お前は間違ってると言われ、頼りにされずダメなヤツだとされちっとも理解される事もなければ… 嬉しさなんて感じないし(動く)元気なんて出ない。 自信も持てず自分の存在価値すら感じられなくなり時にはなんの為に生きてるのかすら判らなくもなる。その『なんの為に生きてるのかも判らなくなる』って事は…それはつまり自分は『どうすればいいのかも判らなくなる』って意味でもあるんだよね。 悪者の自分とは違って“出来るヤツ”“認めてもらってるヤツ”は『こうすればいいだろ!こうしろよ!』というような事を...言ってくるんだけどね。
更に違った部分で考えてみるとだ… 人って相手がどういう人ならその人の言葉を素直に耳に入れるだろうか…? どういうスタンスで接してくる人の言葉なら…人は素直に聞くだろうか…?
そういうの考えた事ある?
『お前は悪い』『お前は出来てない』『お前はダメだ』と言ってくる人の言葉? それとも『お前は悪くないよ』『お前も頑張ってるよな』『お前にも良いとこある』『すごいじゃないか!』と言ってくれる人だろうか? 自分を悪く言い自分を責めてくるような『まるで自分の敵』のような人の言葉か…それとも自分を悪くないと言い自分を良い所を認めてくれ自分を理解してくれるような『自分の味方』になってくれる人の言葉か...
どちらの人の言葉なら『聞こう』と思い、どっちの人の言葉を『聞きたくない(=耳を塞ぎたい、聞かない)』と思うだろうね…?
そして果たしてどちらの人の言葉が『自分が動く』ための原動力やエネルギーになり、どちらの人の言葉が自分が動く元気やエネルギーにならない? むしろ片方はそれらを奪い去り時には“動けなくなる足枷”にも“動こうと思う時の望まぬブレーキ”にさえなったりする。
人って何が良い何が悪いといった『善悪』だけで動くものじゃないんだよね。 言い換えれば、人は物事の『善悪だけで動けるもの』じゃないんだよ。 |