NO.886856 ・オウさん(男性/39歳) 2015/01/24 17:21:06
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ありますよね〜そういう事って。
どうのこうのいった所で結果的によければすべて良しなんですけどね。
思うに、他から与えられた動機で動いているので満足が満足じゃなかったりするんですよね。
それはイヤな事をされたその“相手に勝った”満足だし、“やったった感”とか“ほれ見たことか”的な事から得られるいわゆる『見返してやった』事の満足なんだけど、でもそれは本来の自分のしたかった事とかもともとの自分が望む事をした時に感じる満足や元々自分が望む事をしてなんとかそれを得たような時の満足感じゃなかったりするんですよね。
貴方のと同じようなどこか満足できない満足感って他の事でも似たようなものありますよ〜。
たとえば『親が望んだとおりの人生を歩んできた人』とかは、例えばどんな高校へ行ってどんな大学を受験し、どんな仕事についたかでそれぞれの苦しい試練を乗り越えてきているんだけど、の“乗り越えた満足”とか“期待に応えた満足感”“上手く手に入れた満足”なんかはあるんだけれど、だけどそもそもそれらが自分が本心から思って望んだ事じゃなかったりする。 それって“自分が思って動く自分動機”ではなくて、他人から与えらえた動機で動いてきた事によるいわゆる『他人動機』で生きてきたからなんだよね。
あるいは。『妻子供がいて本当は独立したい挑戦したいと強く思ってたのに思いとどまらされてサラリーマン続けてる人』とかも似たような事を感じるし、
また、そこまでではなくても普通に働いているサラリーマンでも、妻や子が父親は汗水垂らして働いているその苦労を判ってあげてなかったり旦那は働いて当然だと思い込んで接してたりすると『オレは何のために働いているのかな…』といった満足感や生きる意味の欠如を味わったりするけれどそれも同じ類のものだったりするんよね。 そこに『自分』ってものがないからなんだよ。
根本的な部分は他人動機でうごく人生ではなくて自分動機でうごく人生へと生き方を変えるといいんじゃない?
また、違う角度からアプローチするなら物事の見方や捉え方を変える事もいいと思うよ。 『今の自分は見方や捉え方がなんかアカン』って自分で把握しているんだし。 そこもポイントだと思うわ。
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