NO.878074 ・優しい時間さん(男性/56歳) 2014/09/26 19:09:30
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自殺する人は、「生きる力」を喪失した人。
経済破綻して、明日、どうして生きていったらいいのか?、そんな絶望感に冒された人。 不治の病でもう余命がなく、希望を持てない人。 愛する人を失い、こころに深い喪失感を味わった人。 苛めに苛まれ、孤独で自分の存在すら感じられなくなった人。。。様々。
そんな時、他者は、「お金がなくてもあなたには家族がいるではないか?」と慰める。。。 重い病であっても、「僅かな余命を精一杯生きよ」と慰める人もいる。 深い愛に破れても、「また、新しい出逢いに向けて生きよ」と励ます人もいる。 苛めにあった子に「そんなに嫌なら学校なんて行かなければいいんだ」と諭す人もいる。。。
でもね、苦役の中にいる当事者は、すでに『生きることに疲れているんです』よ。 その人にはもう生きるエネルギーは残っていない。
もうなんの努力もなしに「救ってほしい」の一念しか。。。
それは健常者であれば、「克服」の手立ても見つけようと考えもします。 でも、生きることに疲れた人は、健常な人とは「その重さ」は違うものなのですね。
生きることに意欲のある時は、「自分のこころの中で、克服に向けて広げていける」ものなのですが、 絶望している人にとっては、もう「受け身」でしか力が存在しません。 だから「手立て」などないのですよ。
そこが心理的に健康な人とは、違うのです(前提に相違がある)。
だから、心理的健康な人には理解は出来ないのです。 つまり、「それ」を理解してあげない限り、ただの慰め(反発)にしかならないのです。
野球の9回の裏、起死回生において、満塁ホームランしか、もう「救い」はないのですね。
それ以外は、その人を救えない。 ゲームオーバーしか残されていないのです。 「後僅かだが、頑張れ!」と激励したところで、戦意喪失した者には通じないのです。
本当の挫折感を知らない人は、「その窮地」には立てません。
生きる力を喪失した人は、「無条件で愛を周囲に求めています」。
でも、その胸襟に触れて貰えないと時には「終わり」がきます。
私はいつも思うのですが、「どうして周囲の誰かが、その苦しみを解ってあげる人がいなかったのか?」と苦悶します。
本当の「不公平」は。現実的な事象ではなく、その者の「こころの中」にあるものなんですね。だから救うのが難しいのです。
自殺しようとする人に「今、頑張ることで救済」を示唆しても、なんの効果もございません。
もし、生きる意欲を喪失した方が、未直におられたなら、 「全面的に無条件」で支えてあげるしか手立てはないかも知れせん。
そんな慈愛があった人は、死ななくて済む。
赤ん坊のようにママの胸に包まれたい、そんな願望を満たしてあげるしか、方法はないように思います。
貴女は未直な大切な方を亡くされたようですが、 こころから、その死を悼んであげてほしい。 それがせめてもの「供養」であると思います。
そして、それに返して、「生きる意欲」を喪失しないように「それ」を教訓に生きてほしい。 今、、貴女に出来ることは、故人を悼み、慈悲に祈るしかないと思いますので。。。
哀しみの淵から立ち直られることを祈っています。
不治の病で妻を亡くしたオヤジより。。。
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